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ツバメと冷や麦

「雨の季節はいつやってくるんだい?」
空の泳ぎ方を憶えたばかりのツバメに尋ねてみる。

「先のことは気にしないで、
今日は今日の空を楽しめばいいんじゃない」
と、なんとも妥当な答え。

飛び去っていくツバメを見送った先には
夏みたいな青空とヒコーキ雲。

こんな空に似合うのは冷たい麺。
つるつるっとした冷や麦を楽しむことにしよう。

〜〜2012.6 800 for eatsウェブサイト「800ごはん」芒種より〜〜

タンポポの味わい

ホームレスの男と小さな男の子が、夜のレストランに忍び込む。
怪しい風貌の男が見事な手さばきでオムライスをこしらえる…。

伊丹十三が撮った映画「タンポポ」のワンシーンだ。
映画は、宮本信子が演じる女亭主が切り盛りするラーメン屋を、
山崎努演じる運転手など、個性豊かな面々の協力によって
行列のできるお店に変えていく、というストーリー。

最初に書き出したシーンは、物語の筋からいうと重要ではない。
だがケチャップライスの上にのったオムレツにナイフをいれた途端、
半熟の黄色い卵がぷるんと流れ出すシーンが、深く脳裏に焼き付く。

この季節、道ばたに咲くタンポポを見かけるたびに、
ついオムライスを思い浮かべてしまう。
花より団子とはこのことだ。

〜〜2012.5 800 for eatsウェブサイト「800ごはん」立夏より〜〜

苺の思ひ出

ショートケーキに鎮座するスイートなルックス。
甘くみずみずしい苺は、幼い頃から特別な存在だった。

ガラスのボウルに牛乳を入れ、苺を浮かべる。
練乳をかけ、フォークでつぶしながらいただくのは、
苺の食べ方の中でも最上級のものだった。

食べ終わりなると、苺味の牛乳の底に、
溶けきれなかった練乳が残っていて甘さが一層濃くなる。
シアワセな気分になると同時に名残惜しかった。

そんな“思ひ出”をまとっているからか、苺を使ったデザートには
いつだってちょっぴり胸の奥を締め付けられる。
 さて春も後半戦。そのキュンとさせる、甘酸っぱさを楽しむのだ。

〜〜2012.4 800 for eatsウェブサイト「800ごはん」穀雨より〜〜

コロッケは洋食にあらず

つむぎやの宴ではコロッケをよく出す。
「男の和食」という言葉をしばしテーマに掲げる我らだが
コロッケとは洋食だろうか、和食だろうか。

言うまでもなく“和”は「日本の」という意味。
我らの大雑把な感覚でいうと、
小さいときから慣れ親しんできた料理は、
和食にカテゴライズしてもいい気がする。
「日本の日常食」という意味でね。

さて、ここであらためて“和食”というものを考えてみる。
ものとものとを足すこと。
足し算のことを“和”ともいう。
「和音」と言えば、音を足して、調和させること。
そしてお料理にも「和える」という言葉もある。

さらには「なごやか」、「なかよくする」という
意味もあるわけで、ざっと考えただけで
これだけ出てくる、“和”という言葉は、
なかなかに奥深い。

そんな“和”をすべて飲み込んだ料理が
“和食”であると、我らは考えたい。

そういえば宴で、コロッケをみんなでつついて
ホクホクとやっているときは、
まちがいなく「なごやか」な時間だ。

おまけにもう一つ、あらためて気がついたことを。
“和”と“日本”が同義語だと解釈すると、
日本とは、とても美しい国だと思う。
“和”の国の人であることを、我らは誇りに思う。

ソウルフード

宴では、よく自分の地元である山形の庄内地方の
郷土料理ってやつを振舞う。これが思いのほか喜ばれる。

知らない土地の知らない料理を食べるということは
みなさまにとっては、それ自体が新鮮な体験。
自分にとっては、地元の料理でもてなすことで
自分自身をプレゼンしているのかもしれない。

日々の食はその人を物語る。
幼い頃から食べてきたものってヤツは、
自分を形成する“ソウルフード”なんだってよく思う。
地元の食材を取り寄せて、郷土料理として振舞うことは、
そのまま自分を知ってもらうことに繋がっている。

それとは別の側面もある。
みうらじゅんじゃないけど、親孝行を考える年齢になった。
じつは、宴で郷土料理を作ること自体が
ひそかに親孝行(家族孝行)のシステムとして機能している。

母方の祖母はまだ現役で魚の行商を営んでいる。
郷土料理を作る時に、そのばあちゃんから魚を取り寄せるわけだ。
安く買えたり、心意気で貰えるときもある。
そういうメリットももちろん大きいけど、一番大事なのは
ばあちゃんの仕事を“利用する”ということだと思っている。
彼女が仕入れたり、さばいた魚を使うことで、
ばあちゃんの仕事ぶり、さらに言うならば生き様に
直接触れることができる。
そうすることで普段接している時より、
ずっと深く尊敬することができる。

さらにレシピを実家にいる母や祖母に聞く。
東京に出てきたドラ息子が、実家にコンタクトをとる
よいきっかけとなっている。

自分がなにげなく作っている郷土料理は、
自らの「土地のもの」「家のもの」を
受け継ぐことでもあるわけで、
それはプレゼントを贈るとか、そういうのとは違うけれど
実家を離れてしまった自分にできる、
ひとつの親孝行のカタチではないかと思う。

僕の中に宿るソウルはまだ完全なものではない。
というわけで、我が実家のみなさま。
これからもご指導ご鞭撻をよろしく。

晴耕雨読

さていきなりだが、話はマツーラの小学生時代に遡る。
当時松浦家に、カメラマンの方が取材に来た。
なんでも家族の食卓の風景を撮りたいのだという。
当時から横文字職業に、くらっときてしまう自分(馬鹿!)は
生まれてはじめて会った“カメラマン”という職業の人に
羨望のまなざし。そしてお約束のようにサインを求めた。
そこで書いてもらったのが次の言葉だ。

“晴れた日は公園でキャッチボールを
雨の日は家で本を読もう。”

この言葉は“晴耕雨読”を、小学生の自分向けに
アレンジしてくれたものだったということに
最近になって気がついた。

“晴耕雨読”は、晴れた日は畑を耕し、
雨の日は書物を読んで過ごす。
世間の煩わしさから離れて、悠々自適な生活を
おくる様子を表す言葉だ。
スローなライフスタイルが見直されている最近は、
“都市を離れて自給自足の暮らしをおくること”
というような意味で使われることも多い。

都市に暮らす我らは、この言葉の解釈をもう少し
広げちゃってもいいんじゃないかと思ってます。
自然を感じること。
四季を愛でること。
そして何より毎日を楽しむこと。
ばっくりしすぎてるけど、きっとこんなこと。
キャッチボールの例えのように
ひとりひとりの日々の楽しみを
当てはめることにしよう!

さしあたって今自分がこの言葉を
アレンジするとしたら、どんなだろう。

“晴れた日は公園でビールを
雨の日は家で「晴耕雨読」を飲もう。”

お気づきの方も多いと思いますが、「晴耕雨読」
それは我らの宴でもよく出す、お気に入りの焼酎の名前…
あぁ、でもこの文章じゃぁ、
晴れても、雨でも、飲んでばっかりだなあ。